6月29日はプロ野球界の名選手にして名監督「野村克也の生まれた」日です。

「クビになる」恐怖から生まれたID野球

「選手が練習しなくなった。原因を作ったのはノムさんだよ」2004年から2011年に中日ドラゴンズの監督を務めた落合博満が発した言葉だ。裏返せば野村の影響力の大きさを知らしめる発言でもある。データを重視するID野球を標榜し、プロ野球に革命を起こした名伯楽・野村克也は1935年の、今日生まれた。今年の誕生日で82才となった。

「野球は頭でするものだ」野村は現役時代より何度も口にしている。野村がこのような考え方に至ったのには理由がある。不世出の大投手・稲尾和久の存在だ。


キャッチャーマスク (画像=写真ACより)

野村が南海ホークス所属時代に、ライバル球団の西鉄ライオンズに所属する稲尾が大の苦手で完全に押さえ込まれていた。鋭角に曲がってくる稲尾のスライダーがどうしても打てなかったのだ。「このままではクビになる」野村は当時高価だったビデオテープを調達し、稲尾の癖や投球パターンを徹底的に調べあげた。わずかな癖をきっかけに、インコースに投げる球は100%球種がわかるようになったという。

―これでまだ野球ができる。

稲尾は天性の投球感覚を持っていた。ストレート、スライダー、シュートと異なる球種を同じ握りのまま投げ分けたとされる。こうした天才に不器用な自分が勝つには考えて、考えて、考えるしかない。「才能には限界はある。でも、頭脳に限界がない。」この経験が野村の野球感を形作ったのだ。

「女房はドーベルマン」から政治家との対談本まで幅広く

この野村の考える野球を選手として体現したものを上げるなら、ヤクルトスワローズ時代に薫陶を受けた古田敦也をおいて他にはいないだろう。監督野村の考えをグラウンドで再現した古田は、野村とともに4度の優勝を果たした。古田が野村の作り上げた最高傑作にして、90年代最高の捕手であることは論を俟たない。

古田と野村プロ野球の歴史に残る師弟関係と思われているが、当初は野村の古田に対する評価は高くなかった。「大学・社会人で活躍したから何だ。プロ野球の捕手として必要なものは全く別物だ」と、ドラフトでの指名にも頑強に反対していたという。


野村ノート (画像=写真ACより)

実際にプロ入り当初は、強肩で抜群のスピードを持った飯田哲也や類い稀な打撃センスが注目された秦真司らの方が評価は高かった。しかし、野村は古田の気づく力に注目する。ベンチで野村の前に座る古田が相手チームの守備位置やバッターの癖などについて頻繁に呟くのを聞いたからだ。考えるには、考えるためのきっかけが必要だ。そのためには変化に気づく力がなくてはならない。その才を古田は持っていたのだ。

頭脳の前に、感性が必要だということだろう。こうした野村の考えや言葉は、野球界以外にも影響を与えている。

野村がこれまで記した著書は通算100冊を超える。対談本も多く、ジャーナリストや政治家、経営者など多岐にわたる。

ここまで自らの考えが世に知られた野球人は今後も現れないのではないだろうか

敬称略

 
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