6月28日は「五代目古今亭志ん生」の誕生日です。
戦後最大級の落語家は、1890(明治23)年のこの日に東京神田に生まれた。
幼少時から素行が悪く、長じると博打や酒など放蕩の限りを尽くしたという志ん生は二十歳を前に芸道に入る。しかし、落語の腕は上がれども、周囲とのもめごとも多く生計を立てるのにも一苦労したという。
末廣亭 (画像=写真AC)
借金取りから逃げるために妻子とともに移り住んだのが、現在の墨田区業平橋の「なめくじ長屋」だ。できたばかりの長屋で「家賃はいらないから宣伝してくれ」という大家の言葉に甘えて、入居を決めたという。それまで住んでいた笹塚の借家では一度も家賃を払ったことがなく、大八車に家財道具一式を載せて夜逃げを企てたが、いろいろと手間取っているうちに夜が明けてしまい結局のところ「朝逃げ」になったという。1928年(昭和3)のことだ。
当時の業平橋は池沼を埋め立てたエリアで、水はけが悪く住むには不便な場所だった。
寄席を終えて帰宅した志ん生が、ただいまを言おうにも大量の蚊が口に飛び込んできて、ものを言えないありさまだったというから、劣悪な環境がうかがい知れる。
業平橋 (画像=リビンマガジン編集部撮影)
当時を思い出して志ん生が言うには「いるのは蚊ばかりかと思うとそうじゃァない、蝿がいて、なめくじがいて、油虫がいて、ネズミがいるってんですから、人間のほうがついでに住んでいるようなものです。地面が低くって、年じゅうジメジメしていて、おまけに食いものがあるてえことになると、なめくじにとっちゃァ、この世の天国みてえなところとみえて、いやァいましたねえ。虫の中の大看板はこいつです」と、「なめくじ長屋」の所以はここにある。
「出るの出ねえのなんて、そんな生やさしいものじゃアありません。なにしろ、家ン中の壁なんてえものは、なめくじが這って歩いたあとが、銀色に光りかがやいている。今ならなんですよ、そっくりあの壁ェ切りとって、額ぶちへ入れて、美術の展覧会にでも出せば、それこそ一等当選まちがいなしてえことになるだろうと思うくらい、きれいでしたよ。」と志ん生の生涯をまとめた名著「びんぼう自慢」に詳しい。
その後は、徐々に名前が売れ貧乏生活からは足抜けしたが、「空襲が怖い」という理由で妻子をおいて満州に脱出。戦後も満州で食うや食わずの暮らしを強いられながら、1947年に帰国。長らく音信不通にしておきながら、「今、けえったよ」と何食わぬ顔だった。
戦後は当代随一の人気者として押しも押されもせぬ地位を築いたが、1961年(昭和36年)に脳出血に倒れると、高座からは遠ざかる。1968年(昭和43)の寄席を最後に事実上の引退となった。
1971年の12月には、妻・りん、そして志ん生のライバルにして親友だった八代目桂文楽を立て続けに亡くすと、布団をかぶって「みんな、いなくなった」と声を上げたという。
1973年の9月21日、秋晴れの、この日が志ん生の葬式となった。
生涯がそのまま落語のようだった志ん生を作り上げたのは、なめくじ長屋での貧乏生活をも耐えた妻・りんの内助の功があったからだ。規格外の成功話には、かならず愛の話が付いてまわるものなのだ。なめくじ長屋の話はそれを教えてくれる。
敬称略